14年前の話。

14年前のこの日の前日、私は、大学入って初めての正月休みを終え、できたてぴかぴかの関西新空港からアメリカへ戻って行きました。 
    
ロサンゼルスの空港に到着し、トランジットのためロビーで時間をつぶしていると、モニターが倒壊した高速道路を映し出しました。ロビーのモニターのため、音声がありません。ただ、煙があちこちから立ち上る映像が無音のまま流れていました。
 
今はどうか知りませんが、当時アメリカで流れるアメリカ以外の国のニュース映像は、どこの国のものでも、どこかうすぼんやりと雲がかかったような画質で、天井からぶら下がるモニターに映し出される無音の映像には、倒壊した高速道路やひしゃげたビルが映し出されても、「ああどこか遠い国で地震があったんだ」という極めて乾燥した印象しか抱く事ができませんでした。
 
ダラス行きの飛行機の搭乗準備が出来たことを知らせるアナウンスが鳴り響き、わたしはベンチをたちました。
その時、モニターの右上に、「NHK」と書かれている事に気付いたのです。
愕然とするしかありませんでした。映像は切り替わり、各地のマグネチュードを表示する地図が映しだされました。地図はどうみても紀伊半島でした。
 
前の晩友達と騒いだ神戸の街や、初めて女の子家に泊まりに行った伊丹の街に信じられない数字が表記されています。なす術を知らない私は、泣く事すら忘れて、立ちすくんでいました。
 
グランドクルーはそんな私をせき立て、飛行機に押し込みました。
半日後、やっとの事で寮の自室に戻った私は、一目散に実家 友人に電話をかけました。国際電話なんて通じるはずがありません。

その後数日、アメリカのニュースでは異例の扱いで、日本の大都市が地震で壊滅的な被害を受けた事が延々と繰り返されていました。誰の安否も確認が取れない中、いてもたってもいられない私に出来る事は、新年号印刷直前の学内新聞にこの地震のニュースをねじ込み、ファンドレイジングを呼びかける事位しかできませんでした。学内民主党の連中や、ひごろ気持ち悪いので付き合いをしていないフラタニティの連中の間を調整しまくって、忙しくかけずり回る事で不安な気持ちを和らげていました。
 
調整といっても、そこはアメリカ。困った人を助ける/何か問題を解決する というときの議論のスピードと行動の速さは目をみはるものがありました。学内新聞に写真が載ったからか、キャンパスの中で見ず知らずの他人とすれ違っても、みんなポーンと肩を叩いて、「元気だせ!」「心配すんな!」と声をかけてくれるようになりました。ネット(といっても、アメリカでも普及し始めたばかり)を使って日本の情報を仕入れようとしてくれるギークな連中が声をかけてくれたり、チアの女の子達がアメフトの試合の合間に、「GO!JAPAN! GO!」と叫んでくれたりもしてくれました。
 
そんなこんなで、家族の無事を確認できたのは一週間後でした。
そして、日本を出る前の晩に一緒に三宮で騒ぎ倒してそのまま神戸に泊まろうとした俺に、「お前なぁ、また一年もおかんと逢われへんようになるのに、最後の日ぐらい、おかんと一緒に居たりぃな」と言ってくれたあいつが、遠いところに行ってしまったのを知ったのは、一月後の事でした。
 
関西人のくせに、私はあの地震を体験していません。
しかしやはり私も、あの日の事を忘れる事はできないのです。