学生よ! もっと暴れろ!! 

就活に不満、学生がデモ 札幌中心部で−北海道新聞について、ブクマのコメントでは書き足らないので思うところを補足。
  

「大学は出たけれど」と言う言葉が、初めて流行語になったのは、小津による同名の映画が公開された、1929年つまり昭和4年の事。小津の「大学は出たけれど」は、極初期の作品でありながら、すでに「細やかに生活を描く」という後年の作風の片鱗を見せていてとても興味深いものであると同時に、昭和初年の日本が誇る「軽やかなコメディー」を味わえる小気味のいい名画で、学生諸君にもこの映画を一辺見てみて、「邦画ってすげー」っていう実感を味わってもらいたいんだが、そんな話はさておく。

 
で、「大学は出たけれど」って言葉が流行ったのは、昭和4年

 
昭和4年といえば、片岡蔵相の失言と東京渡辺銀行の取付騒動に象徴される昭和金融恐慌が発生してから二年。普通選挙実施の翌年。どうしようもない不況のどん底の中、政府は有効な経済対策を打ち出すことができず、次元の低いポスト争いと普選を意識した国民向けの甘言だらけのパフォーマンスに終始し、ついに「満州某重大事件」の後始末の悪さを天皇に叱責された田中義一内閣が総辞職するという前代未聞の政治喜劇が起きた年。
 

そんな年に、「大学は出たけれど」という言葉は流行った。


一説によると昭和4年の大学新卒者の就職率は30%を切ったと言う。氷河期も氷河期。もう、超氷河期だったわけだ。大量の就職浪人が街にあふれた。そんな年の秋、無残にも東北・北海道は100年に一度と言われたほどの深刻な冷害に襲われる。「昭和饑饉」とまで呼ばれた冷害に小作農民たちは為す術もない。家々に「娘売ります」の張り紙が張り出され、東京からやってくる女衒は賓客の扱いを受けたという。
 

そして昭和4 年の十月。そんな惨状にあえぐ日本を知ってか知らずか、アメリカで株価が暴落する。いわゆる「ブラック・サースデー」ってやつだ。当時からアメリカは日本の最大貿易相手。そのアメリカ経済の急激な冷え込みにより日本の経済は致命的な打撃をうけてしまう。


どうしようもない惨状の中、当時の若者も追いつめられていく。


余談ながらここまで書き進んで、山岡荘八の逸話を思い出した。山岡荘八は1907年生まれで当時22歳。後に国民作家と呼ばれた彼も当時は無職で食うや食わずの生活を強いられていた。そんな窮状を知り合いの年長者に相談したところ、「甘えたことを抜かすな。仕事がなくて時間を持て余しているのなら、毎朝、家の前の掃き掃除でもしろ。毎朝続けてりゃ、『あんな真面目な子なら』と、近所の人がどっか見つけてくれらぁ」と説教をされたらしい。まあ、いつの世も無神経な自己責任厨ってのはいるもんだ。

 
閑話休題


追いつめられた若者は、新天地に活路を見いだそうと満州に渡ったり、院外団として政治ゴロとなったりとなんとか糊口をしのごうとする。しかし最も刮目すべきなのは、優秀な学生が、非合法化直後の共産党に身を寄せるか、反対に帝大七生社などを経て血盟団などの右翼結社に吸収されていく傾向が強かったということだろう(ちなみに、田中清玄による武装共産党路線も昭和4年。東大新人会と七生社の抗争がピークに達したのも昭和4年)。優秀な若者たちは糊口をしのぐのではなく、社会変革に賭けたのだ。


しかし、みなさんご承知のように、この若者たちによる社会変革運動は、あるいは内部抗争によって、あるいは官憲の白色テロによって、その芽を摘まれてしまう。昇華できない若者たちの変革の叫びは、陰鬱さを帯びはじめ、昭和五年以降の「テロの時代」に突入し、最終的には「権門上に傲れども国を憂ふる誠なし。財閥富を誇れども社稷を思ふ心なし」と嘯く軍部にその活力を吸収され利用されてしまう・・・


その後の歴史はもう、みなさんご承知の通り。





私はなにも、「昭和四年の状況が今に似ている」などと言うつもりはない。確かに似てはいる。しかし私は馬鹿だが「この道はいつか来た道」と指摘して悦に入るほど短慮ではない。また、昭和五年以降の浜口雄幸襲撃事件や5・15事件などを引き合いにだし、「若者の主張に陰鬱さが増すと、やばいぞ」などというつもりはない。


ただはっきり言えることは、昭和金融恐慌のあおりを受けた昭和四年の大学四年生や既卒者達も、平成不況のあおりを受けている平成二十一年の大学生達も「大人たちの都合の犠牲者」にすぎないということだ。


学生達にはなんの非もない。
今の学生が就職難に対する愚痴をこぼすと、大人たちが訳知り顔で、「ゆとり教育の弊害」とか抜かしやがるが、だったら昭和四年の学生達も、ゲーテをドイツ語で諳んじる学生がごろごろいたあの頃の学生も「ゆとり」だったのかと、問い詰めてやりたい。


彼らが苦しみ、もがいているのは、どう考えたって「大人たちの都合の結果」なんだ。
彼らより早く生まれ、彼らが今から参入する「社会」というものの既存構成員たる我々大人がやるべきことは、彼らを訝しんで拒絶することではなく、自分たちが次世代に押し付けようとしている「不都合な結果」をしっかりと受け止めることのはずだ。


大人たちが、若者を拒絶し、「不都合な結果」に向き合うことを拒否し、自分の頭で考えることを拒否したら、世の中がどうなってしまうかは、昭和5年以降の歴史が雄弁に物語っている。


なので、大人たちよ、我々が彼らに押し付けている「不都合な結果」をしっかりと受け止めようじゃないか。




そして学生諸君。
諸君らは若い。若さは諸君らが思っているより強力な武器だ。つらいだろうががんばれ。今の君たちに「がんばれ」という声をかけるのは、大人として無責任な事だということは十分に自覚している。しかし、がんばれ。そして、どうしようもなくなったら、暴れろ。おおいに明るく朗らかに暴れろ。デモもしろ、座り込みもしろ、「なぜ若者に不都合を押し付けるのだ!」と大きな声をあげろ。大きな声を上げるべき時に、大きな声を上げ損ねた「氷河期の先輩」である俺達団塊ジュニアの轍を踏むんじゃない。大いに暴れて暴れまくれ。それが自分のためであり、世の中のためだ。


さっき紹介した「権門上に傲れども国を憂ふる誠なし。財閥富を誇れども社稷を思ふ心なし」というのは、ご承知のように、「昭和維新の歌」の有名な一節。この歌は三上卓によって昭和五年に書かれた(土井晩翠からの盗用が多いんだけどね)。おそらく彼の筆に、昭和四年の受難を押し付けられた日本中の若者の怨嗟の声が乗り移ったんだろう。三上はこの曲を一晩で書き上げたそうだ。
しかし三上は、この曲を書いた2年後、首相官邸に乱入し犬養を暗殺する。
そして、犬養の死は、日本の議会制民主主義の死でもあったのだ。


「我々はいま、『平成の三上卓』を生みかねない状況にいるのだ」という認識のもと、俺は大人の一人として、君たち若い世代にツケを回さないようがんばる。



だから学生諸君よ、君たちもがんばれ、超がんばれ!
そして陰鬱になる前に




もっと暴れろ!