保守主義者が反原発で何が悪い!

(はじめに: 本稿は、2011/5/27にTwitterに投稿しtogetterにまとめた、「保守主義者が反原発で何が悪い!」をほぼそのまま転載するものです)

どうも、世上、「反原発サヨク  原発推進=ウヨク」という抜き難い思い込みがあるようで、最近、「noiehoieは日頃、保守主義者だの右翼だのを自称しておきながら、なぜ反原発なの?」という質問をうけるようになりました。ネット上だけじゃなく、リアルで私を知ってる友人知人からも、「マンション住まいのくせして、祝祭日に玄関に日章旗を飾るようなキチガイウヨクのお前がなんで反原発なの?」と半ば呆れ顔で聞かれる始末です。

正直、私が反原発な理由は、「反原発反革命の一環だから」って一言に尽きるのですが、これでは回答になっていないですし、第一、よけい、「あ、やっぱこいつキチガイだ」と思われて終わりです。 そこで今日は、「保守主義者である私が反原発である理由」について簡単に書き出し、私が反原発である理由を整理しておこうとおもいます。

保守主義者は、「理性の盲信」を忌み嫌う

そもそも、原子力技術は、「理性による自然現象のコントロール」というところにその本質があります。先の震災で、防潮堤を嘲笑うがごとく乗り越えていったあの津波を思い出すまでもなく、人間は現状、「自然現象をコントロールする」術をもっていませんし、今後も持つ事はないでしょう。にもかかわらず、「理性と計画によって、自然現象を完全にコントロールしてやろう」と思うのは、理性への盲信でしかありません。この盲信を盲信と気づかず、人智の及ばざる分野に敢えて踏み込み、それを理性でコントロールしようとする様は、一種、カルトににた異様な様としか言いようがないとおもいます。私の目には、原子力技術とそれへの盲信が、フランス革命後、ロベスピエールによって行われた「最高存在の祭典」にしか見えません。そしていうまでもなく、保守主義者はこの「理性への盲信」を最も忌み嫌います。 これが私が反原発である最初の理由です。

保守主義者は、諦観とともに生きる

保守主義者は常に、「諦め」と共に生きています。何事かを成す為に準備する際には、人知の及ばざる部分があることを謙虚に認めようとします。しかし、原子力技術には、この「人知の及ばざる部分」への謙虚さを許容する余地がありません。今我々が直面しているように、原子力技術で一度事故が起これば、いままで人類が経験したことのない取り返しの付かない災禍が巻き起こります。原子力技術はこれらのリスクを謙虚に認めず、まるで、「こまけーこたぁいいんだよ!」と言わんばかりに、理性を盲信し、効率と効用を追い求めようとします。 そこに諦観や謙虚さというものがありません。保守主義者としては、このような傲慢で強欲な態度は許容できません。これが二つ目の理由。

保守主義者は、郷土を愛する

保守主義者はあらゆる「理性の産物」に対して懐疑的です。ですから「国民国家」というフィクションにさえ懐疑的な態度で接しています。ただし、アクチュアルな存在である「郷土」は、こよなく愛します。故に、いま福島で「故郷を追われる人々」が存在していることは、保守主義者として、許容できません。これが理由の三つ目。

保守主義者は、尊皇家である

四つめの理由は、 天皇陛下です。
 陛下のお気持ちを忖度するなどという不忠な事はいたしませんが、現実問題として、避難勧告が解除された後もしばらくの間、避難区域内へ 陛下の御幸を仰ぐことは不可能でしょう。本朝において、 聖上の御幸を仰げない土地が、寸土であろうと存在していいはずがありません。これが四つ目の理由です。 

保守主義者は、現実主義者である

五つ目の理由は少々俗っぽいです。
日本における原子力発電にもしメリットがあるとすると、「過疎対策」と「利益配分」です。原子力発電を使った過疎対策と利益配分が上手く機能した時代というのは、確かにかつて存在しました。しかしこの、原発を使った過疎対策と利益配分を上手く運営できた政治家は、熊谷組の事例を挙げるまでもなく、木曜クラブの連中だけでした。
しかし、残念ながら、木曜クラブ的な利害調整の方法を身につけた政治家は、もはや自民党にも民主党にも存在しません。日本の中央政界からは絶滅してしまったのです。事実、かつて木曜クラブの政治家たちが行っていた利害調整機能を、いまや、METIの役人が代行しています。利害調整の当事者たりえない役人が利害調整を担当して、いい結果がでるはずがありません。これが、五つ目の理由です。

おわりに

これら五つの理由により、私は、原子力発電およびあらゆる原子力技術に反対の立場を取ります。党派性に凝り固まったはてサのような態度からは、非難をもって迎えられそうですが、私はこれからも、 「天皇陛下万歳」を叫びつつ、あらゆる党派の人々と連帯して、反原発のうねりに参加し続けたいと考えています。


願わくば、みなが党派の垣根を超え、「いま、そこで、泣いている人」の為に連帯できる日が来ることを!